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7月7日は七夕ですね。
お願いごとはされましたか?
日本には、記念日以外にも、花にまつわる伝統的な行事があります。
そんな中の一つ、7月7日は七夕の節句です。
直接的に花のイメージはないですが、七夕には笹の葉に願い事を書いた短冊を吊るします。
どうしてかご存じですか?
7月7日は七夕
七夕は、五節句の一つです。
本来は、織女星(こと座のベガ)と牽牛星(わし座のアルタイル)が旧暦7月7日(現在の8月12日ごろ)に、最も光が強く見えることから、中国ではこの日を特別視して七夕伝説を生み出しました。
それがそのまま、新暦に置き換えられて現在の七夕になりました。
節句の由来
古代中国の陰陽道によると、1・3・5・7・9の奇数が重なる日に、お供えやお祓いをする風習がありました。
日本では平安時代に年中行事になり、江戸時代には少し変化して「五節句」という幕府公式の祝祭日になりました。ただ、1月1日の元日のみ別格扱いとなり、1月7日に充てられました。
七夕の頃は、まだ梅雨入りしている地域も多く、雨が降ることが多いですが、元々は旧暦の7月7日、つまり今でいうお盆の頃の行事でした。
七夕とは「七」の日の「夕」と書きますが、これは7月7日の夜のことで、十五夜(満月)になる手前の「上弦の月」を意味します。
上弦の月の頃は「あの世」と「この世」が半分ずつになり、両世界の境目が曖昧になる日。
七夕とは本来ご先祖様を供養する盆行事だったとも言われています。
七夕の節句
七夕の節句の起源
日本の七夕の由来は、中国の「乞巧奠(きっこうでん)」が奈良時代に日本に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれました。
「乞巧奠」とは、中国で7月7日の夜に行われる行事のことです。
手芸などに携わる仕事につく女性が、より優れた技術を授かることができるよう、針仕事がもっと上達するよう、星空に祈りを捧げる日でした。
それが日本に伝わって、機織りなどの仕事に限らず、書道や芸事などの上達も祈願するようになったといわれています。
日本での歴史
短冊に願い事を書き葉竹に飾ることが一般的に行われていますが、実はこれは日本だけのものなんです。
七夕がまだ日本で貴族文化だったころ、貴族たちは技芸の上達を祈り、紙に願い事を書いてお供物と一緒に七夕の日の朝に川へ流していました。
この「紙に大切な願い事を書く文化」がいまの短冊となりました。
また、天に向かって伸びる笹竹に吊るすという行為は、願い事を天に届けるためとされています。
庶民に七夕文化が広まったのは江戸時代以降と言われています。
江戸時代は寺子屋が増えたため、習字や習い事の上達を願う行事として親しまれ、短冊に願い事を書くことが広がっていきました。
どうして笹の葉に短冊を飾るの?
七夕飾りに笹を使うのは、笹が天の神様の依りつくところ(依り代)とされているからと言われています。
また、暑い時期は食べ物が腐りやすく、体も弱りがちです。
昔は抗菌効果がある笹をご先祖様へのお供物などの下に敷き、防腐用として使用されていたそうですが、七夕の日に笹の葉にお供え物をのせ、願い事や穢れと一緒に川に流す習慣もありました。
また、七夕の飾りにはそれぞれに意味があります。
動揺の「たなばたさま」にある「五色の短冊」の五色は、陰陽五行説にあてはめた五色で、緑(青)・紅(赤)・黄・白・黒のことです。
七夕のルーツから考えると、勉強や習い事などの上達を願ったり、無病息災や平和などを願うのが良いとされています。
他には、吹き流しは織姫の織り糸を表していたり、網飾りは大漁を願ったものだったりそれぞれに意味があります。
七夕の物語
こと座の1等星ベガは、中国・日本の七夕伝説では織姫星(織女星)。
そして、わし座のアルタイルが夏彦星(彦星、牽牛星)です。
織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者でした。
彦星もまた働き者で、天帝に認められ、結婚し楽しい生活を送るようになりました。
ところが、あまりにも結婚生活が楽しすぎて、二人は仕事を忘れて遊んでばかりいるようになってしまいます。
織姫が機織りをしないので、皆の着物が古くてボロボロ、そして彦星が世話をしないので、牛たちがやせ細って病気になってしまいました。
天帝は激怒し、二人を天の川の東と西に別れ別れにしたのです。
しかしながら、天帝は、織姫があまりにも悲しそうにしているのを見て、一年に一度七月七日の夜だけ、彦星と会うことを認めました。
どこからかやってきたカササギが天の川に橋を架けてくれ会うことが出来るんだそうですよ。
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